水曜デモとは

日中戦争(十五年戦争)・アジア太平洋戦争中、日本軍は兵士たちの性的欲求を満たすため「慰安所」をつくり、植民地や占領地にいる数多くの女性たちを強制的に性奴隷としました。「慰安婦」とされた女性たちは、繰り返し性暴力と虐待を受けました。日本の敗戦により解放されたはずの被害女性たちは、日本軍兵士に無理やり性行為を強要され、辱められたことを誰にも言えずに長い間生きるしかありませんでした。しかし日本軍の関与はなかったという日本政府の対応に、90年代になって一人、二人と名乗りを上げ事実を話し始めました。それにより日本社会においてもやっと日本軍「慰安婦」の存在が知られるようになりました。 被害女性たちは日本政府に、真相究明、公式謝罪、国家賠償、責任者処罰などを求めて声を上げ始め、韓国では日本大使館前で1992年1月8日から毎週水曜日にデモが続けられてきています。 私たちは、すべての日本軍「慰安婦」問題の被害女性と連帯すべく第三水曜日に水曜デモを行います。

2009年2月15日日曜日

海南島で日本軍がしたこと
















海南島は、中国の最南、ベトナムのトンキン湾に面する大きな島です。面積3万4千平方km、日本の九州ほどの大きさで、黎族や苗族などが住んでいます。1939年2月日本海軍は海南島を占領し、その翌3月に、海口の海軍情報部長は、 台湾台北の海軍武官室を通じて台湾拓殖会社に「慰安所」設置を依頼しました。日本外務省・日本海軍・日 本陸軍の三省連絡会議の決定にもとづくものでした。
 台湾拓殖会社は、5月に海口に「海軍慰安所」を設置、その後長期におよぶ占領の間、日本軍は海南島各地に多数の「慰安所」を設置してゆきました。
「慰安所」には、日本人女性、占領地の中国人女性、植民地の台湾人や朝鮮人女性を連行してきましたが、他に海南島現地の女性たちを、強姦、輪姦、拉致、監禁し「慰安婦」として性奴隷としていました。
現在、名前の知ることのできる朝鮮人女性は、朴来順さん、金玉珠さん、李玉今さんです。
朴来順さん(1942年2月 海口で)

朴来順さんは、日本の軍艦にのせられて、1942年2月に海口につれてこられ「慰安所」にいれられました。そして、43年に1月に三亜の紅沙の「慰安所」に移されました。
そこは田独鉱山の近くで、日本軍人だけでなく炭鉱を経営していた石原産業関係者も来たといいます。台湾人と朝鮮人が50数人いたそうです。日本敗戦後、故郷に帰ろうとせず三亜北方の保亭で、道路工事などに従事されました。「ここで長い間暮らしたのだから、ここで死ぬ」と、1995年、韓国と中国が国交を樹立してから3年後に、保亭の病院でなくなりました。79歳でした。

                               中山路にあった「慰安所」のひとつ

 金玉珠さん(1923年生)は、日本の敗戦後、働かされていた「えびす」という「慰安所」で、船が出るのを待って、1946年9月に日本を経て釜山に戻ったそうです。
李玉今さん(1914年生)は、日本に12年間いた後、広東を経て、日本軍と一緒に海南島に行ったそうです。他の女性たちと一緒にトラックに乗って、いなかの日本軍基地を回ったそうです。1945年8月15日、日本基地に行ったら日本兵は一人もいなくなりました。そして、翌年2月に海南島から船に乗り日本を経て朝鮮に帰られました。
海口の慰安所には、朝鮮人朴来順さん、金玉珠さんも入れられていました。金玉珠さんは、「慰安所」から、時計台が見えたと証言しています。  

 海南島では、女性を「慰安所」に監禁する性奴隷制度とは別個に、村落に侵入した日本軍の将兵による性的暴行、自由剥奪、継続的性的犯罪がおこなわれました。少女の時、日本軍人に性奴隷とされた海南島の黎族と苗族の女性8人、林亜金さん、黄玉鳳さん、陳金玉さん、鄧玉民さん、陳亜扁さん、黄有良さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんが名乗りを上げ、日本政府に提訴しています。
 名乗りを上げたうちの1人の方は、16歳のとき、日本軍に徴用され「戦地後勤服務隊」に入れられ作業のとき日本兵に強姦されました。昼は水運びや洗濯をさせられ、夜は何人もの日本兵に強姦されるという日々が続きました。嫌がると顔を殴られたり、谷へ突き落とされたりしました。そのため、左骨盤が骨折、今でも脊椎も骨盤も左へ変形したままです。拷問によって死の恐怖を焼き付けられ、父母に暴行を加えて追い詰められ、さらに妊娠した少女を惨殺する場面を見せられた体験から、現在もPTSDに苦しめられていらっしゃいます。
 もう1人の方は、18歳のとき、日本兵に捕まり、駐屯地に連行され、小さな部屋に入れられて、毎晩複数の日本兵に強姦されました。1年間ほど監禁所に閉じ込められて抵抗できず、いつ殺されるか、自分が生きているのか死んでいるのかわからない生活でした。他の3人の娘たちとは別々に閉じ込められましたが、下半身から膿が流れ出るようになると4人とも解放されましたが、その3人も次々と死んでいきました。やっと帰った村でしたが、父親は死んでいました。母親の看病で元気になりましたが、再び捕らえられ監禁所で強姦の日々が続きました。日本の敗戦が色濃くなり、日本兵が突然いなくなると、彼女は郷里にもどったが、村は日本軍に焼き払われて、母も兄も死んでいました。日本兵に縛られ、踏みつけられたために、右の胸と背中の痛みはとれず、胸部は変形したままです。すべての男が恐ろしく、心を開いて結婚した優しい夫とも、最初は夜一緒に休むことができなかったそうです。しかし、夫を失った後、また日本兵が追いかけてくる悪夢を見て叫ぶことがあり、よく眠れないそうです。フラッシュバックで、日本兵に命令されたり、押さえつけられているようになり、急に不安になったり、力が抜け、涙が出たり、頭痛がしたり、吐き気がして吐くこともあるそうです。



8人の方は、日本政府を被告として「名誉及び尊厳の回復のための謝罪」と「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて、2001年7月に訴状を日本の東京地方裁判所に提訴しました。しかし、2003年に譚玉蓮さんが、2004年には黄玉鳳さんが亡くなられました。
 2006年8月30日、東京地方裁判所は、「原告らの請求は理由がない」として「棄却」するという判決を出しました。原告たちは、ただちに控訴しました。
「海南島戦時性暴力被害訴訟」は、この3月26日に東京高裁で、控訴審判決がでます。現在、日本でおこなわれた一連の「従軍慰安婦」裁判では、唯一継続中のものです。
日本軍は、海南島占領の間、住民の大量虐殺や「朝鮮村」の「朝鮮報国隊」の虐殺、略奪などをおこなっています。詳しくは、おすすめサイト“海南島近現代史研究会”をご参照ください。

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